エンターテイナーとしての宮本武蔵

エンターテイナーとしての宮本武蔵


最強の剣豪と呼ばれる宮本武蔵のイメージは吉川英治の小説『宮本武蔵』によりつくられたものが大きい。


この小説の誕生は作家、ジャーナリストであり、文藝春秋を創設した菊池寛と、やはり小説家であり、映画監督である直木三十五(直木賞は彼の名前に由来する)との間に生じた宮本武蔵は実際に最強の剣豪としての腕はあったのかという論争に端を発する。

1932年に、直木三十五が武蔵は剣の達人ではなかったという説を発表し、それに対し菊池寛が間違いなく武蔵は剣の達人であったと反論した。この論争の最中に直木三十五が吉川英治に対し、どちらの説が正しいかを尋ねたところ、吉川英治は菊池寛の説を支持すると発表した。


この論争から三年後の1935年に吉川英治は小説『宮本武蔵』を書き上げ、ラジオ朗読や映画化されるほどの人気を博し、太平洋戦争下であった当時の日本人の心に呼応した。結果、新聞小説史上かつてないほどの人気を得たそうで、それにより現在での「宮本武蔵=最強の剣豪」というイメージが根付いたのである。

しかしながら、歴史というのは往々にして都合よくねじ曲げられ、大げさに脚色されることは多々あるわけで、吉川英治の小説『宮本武蔵』もその例外ではない。


武蔵伝説には様々なハイライトがあるが、まずは若き日の武蔵をイチョウの木に吊るしたとされる臨済宗の僧である「沢庵和尚」との関係。

これは、吉川英治本人がこの二人の出会いは自分の創作であり、元となる文献はないと明言している為、実際は一度も出会っていない可能性が高いのである。


また宮本武蔵といえばやはり一番に上がってくるのが「巌流島の決闘」である。

しかし、これに関しても諸説あり、佐々木小次郎という人物についての詳細はなく、武蔵の死後100年以上経ってから書かれた資料に軽く触れられているだけで、随分と脚色されている可能性が高い。

決闘の当日、武蔵は約束の時間にかなり遅れてやってきて、真剣ではなく木刀で小次郎を倒したというのが定番のシーンであるが、武蔵は数名の弟子と共に現れ、集団でリンチにかけたという卑怯者説まである。

それどころか、そもそも小次郎という人物は存在しなかったとか、決闘そのものが創作であるとか、当時は武家諸法度のために刀を抜くことさえ許されない世情であり、役人立ち会いのもとで殺し合いをすることなどあり得ないのではないかという説もある。


これ以上語るのは武蔵伝説に水をさすようであるが、「吉岡一門との決闘」に関しても、武蔵のライバルとされた吉岡清十郎、吉岡伝七郎兄弟なる人物は吉岡に存在すらしないのである。

武装した武術者数百人を相手に一人で勝利したという一乗寺下り松の戦いなど、事実であれば大事件であり、京の街で大変な話題なろう筈だが、武蔵側の資料に載っているだけで、他には何の記録も残されていないのである。


こう並べてみると、宮本武蔵なる人物はほとんど実態のないもののように感じてしまうところだが、日本人本来の高潔な精神の象徴、武士道のシンボルとして、現在に至るまで深く浸透している事実は否めないのである。

また、当時の時代背景や武士たるものの成り、登場する武芸者たちのキャクターやその人生を覗き見るとき、宮本武蔵というフィルターこそが我々を虜にし、ダイナミックかつ痛快にその世界感を映し出してくれる唯一無二の存在であるように思われる。(ジャズミュージックの歴史を知ろうとした時にマイルスデイヴィスの伝記を読みながら順にレコードを聴けば、それがわかる様に。)


そして晩年、武蔵は書や水墨画を描くようになり、武芸者とは別の顔を見せ始める。個人的な見解だが、それまでに武芸によって名声を勝ち得ていた武蔵の作品が注目されるのは当然であり、引退したスポーツ選手が南国の島に行き、油絵なんぞに没頭するのによく似ている様な似ていないような…。水墨画については、二天の号を用いたものが多く、武蔵が創り上げた「二天一流」から由来するものである。武蔵が流祖である二天一流を後世にまでも残そうとする武蔵の貪欲さを感じるのは私だけだろうか。


天下泰平である江戸時代の初期に 、剣術と武士道によって人生を切り開いていく姿は、それ自体が一つのエンターテインメントの様である。

命を賭けた孤高の興行に、当時の人々は大いに魅せられたのではないだろうか。

決闘を演出し、注目を集め、次々と打ち負かしていく武蔵の次の相手は!なんて感じで、宮本武蔵を一人のエンターテイナーとして見てみるのもまた面白いかもしれないな、などと考えるこの頃。


最後に武蔵の有名な格言で締めたいと思う。


「空を道とし、道を空とみる」


なんとなく芸人の言葉にもきこえてくるのである。

 

 

2015/8/22 成田雲助