高山彦九郎

1747-1793

群馬 生

勤王家・思想家

師 河野恕斎

林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」と呼ばれる。

また、吉田松陰をはじめ、幕末の志士に多くの影響を与え、

戦前においては、二宮尊徳や楠木正成と並んで修身教育で取り上げられた。



沢庵宗彭

1573-1646

但馬 生

禅僧

臨済宗大徳寺派

詩文・書画・茶道に通じた安土桃山時代から江戸時代初期を代表する臨済宗大徳寺派の僧。多くの人から慕われ、徳川家光をはじめとする土地土地の権力者などから帰依をうけているが権力に迎合せず禅風を崩す事もなかった。また、宮本武蔵との関係が多くの作品で描かれているがフィクションであり二人の関係が残っている資料は存在しないこ言われている。



竹内栖鳳

1864-1942

京都 生

日本画家

師 幸野楳嶺

帝室技芸員・帝国美術院会員・文展審査員・京都絵画専門学校教授

文化勲章 他 受賞多数

西洋と日本の写実技法を取り混ぜた画風を展開、近代日本画の礎を築いた京都画壇を代表する日本画家。近代的な写実主義を追求し、得意であった動物画はその匂いまで描くと評された。また、自身の主宰した画塾からは日本画壇に名を残す多くの俊英を輩出した。



武田観柳斎

生年不詳-1867

出雲 生

武士

新撰組五番隊組長

甲州流軍学を修めていた事から新撰組内では軍師として重用された武士。近藤勇が専横に走った原因を作ったと言われており、媚びへつらう態度に隊士達は嫌悪感を示していたという。隊内での影響力が無くなって来るにつれ、薩摩藩や伊東甲子太郎との接触を企てるなど不穏な行動に出だし、京都郊外にて斉藤一や原田泰之進らによって暗殺されたと伝えられる。



武田信玄

1521-1573

甲斐 生

大名

風林火山を軍旗に掲げ活躍した戦国時代最強の一人ともいわれる戦国大名。上杉謙信との「川中島の戦い」はあまりにも有名で多くの作品で語られている。その後の流れから信玄の死が戦国時代の終焉を迎えるきっかけであったといっても過言ではない。



武富時敏

1856-1938

佐賀 生

政治家

財界からの支援を受けない姿勢は精錬の政治家とも呼ばれ、大隈内閣において大蔵大臣など歴任した政治家。また、肥筑日報を発行。憲政会の重鎮として立憲民政党の後見人的存在であり続けた。



田近竹邨

1864-1922

豊後 生

南画家

師 淵野桂僊.田能村直入.

文展での受賞歴は華々しく、日本南画院の創立に携わるなど大正期の京都画壇において中心的な活躍をみせた豊後南宋画の名手。南画三元老の一人として南画の発展に尽力。「大正描き」を呼ばれるほどの評価され「一楽荘描」などの名品を現代に残す。



伊達政宗

1567-1636

出羽 生

大名

仙台藩初代藩主

独眼竜で知られる戦国時代の名将。20年生まれるのが早ければ天下を取れていたといわれた。文武両道に優れ後世にその名を残した。



建部巣兆

1761-1814

江戸 生

俳人・画家

師 加舎白雄・桜井雪館・住吉広行・谷文晁

義兄 亀田鵬斎

松尾芭蕉も私淑し、夏目成美・鈴木道彦と共に三大俳画家と称された俳人。また、画家としての評価も高く俳画にて秀作を多く残している。



田中案山子
1906-1970
東京 生
日本画家
師 田中以知庵
院展院友.新興美術院創立.大東南宗院審査員.

確かな画力で数々の受賞を重ねた後、小林巣居人らと新興美術院を結成するなど活躍。その後、画壇を離れ三越本店における個展中心の活動へと発表の場をかえ、花鳥画を中心とした数多くの作品を残した。



田中一村

1908-1977

栃木 生

日本画家

生涯無名の画家であったが、「奄美の日本画家」としてNHKで報道されて以来、 独特の画風と作品が再評価され 人気を集めた日本画家。南の島で強烈に生きたその姿を重ね「日本のゴーギャン」とも言われる。代表作である晩年の作品は、奄美大島に移住後、大島紬の染色工場で働きながら孤独と貧困の中で描かれた。



田中義一

1864-1929

長門 生

政治家・軍人

陸軍大将・内閣総理大臣 他 大臣歴任

勲一等功三級男爵

軍人より転身し幕末より続いた長州閥最後の大物として内閣総理大臣を務めた政治家。昭和金融恐慌の沈静化は評価されるが、中国への強硬外交、ファシズムへの舵取り、左翼陣営への弾圧などは昭和の悪政としてその後の歴史を左右する事となった。



田中弘之

号 舎身

1862-1934

美濃 生

運動家

浪人会・大乗会創立者

大日本国粋会顧問

浪人会を組織し国家主義を唱え先導、また、大乗会を設立し大乗仏教の普及に務めた活動家。雄弁家で大正初期の三大言論家と呼ばれる。



谷三十郎

1832-1866

備中 生

武士

新撰組七番隊組長・副長助勤

三兄弟で新撰組に参加し新撰組七番隊組長を務めた武士。槍の名手として知られ、池田屋事件・禁門の変などで活躍。弟の昌武が近藤の養子となったことから、隊士たちからも一目置かれた存在であったが慶応二年4月の雨降る夜、祇園石段下に死体となって発見。死因は暗殺とも卒中ともいわれている。



谷文晁

1763-1841

江戸 生

南画家

江戸南画の大家であり、円山応挙・狩野探幽とともに「徳川時代の三大家」ともいわれる。

古画の模写と写生を基礎にし、諸派のよい所をあわせてまとめた南北合体の画風を目指した。その為、南画、日本画、古典はもとより洋画や朝鮮画まで学ぶなどその好奇心は留まる所を知らず「八宗兼学」とまでいわれる独自の画風を確立した。

亀田鵬斎、酒井抱一をはじめ木村蒹葭堂・松平定信・太田南畝・山東京伝ら交友関係は広く時代の中心であるとともに、門下に渡辺崋山・立原杏所・椿椿山・高久靄厓・田能村竹田・田崎草雲・亜欧堂田善・鍬形蕙斎らといった後の大家が大勢おり後世に残した影響も計り知れない。



田能村竹田

1777-1835

豊後 生

南画家

師 淵上旭江・村瀬栲亭・谷文晁

豊後国岡藩の藩校の儒学者として若くして藩政に参加。その後、江戸にて谷文晁に画を学び、村瀬栲亭に詩文を学ぶ。1813年35歳の頃に職を辞し書画で生業を立て、浦上玉堂、青木木米、頼山陽などと交流、中国画を独自に研究し豊後南画の創始者として名声を得た。また、煎茶、和歌、音楽などにも秀でた文人画家の代表格でもある。多数の書画を残し後世に影響を与えているがその中でも「歳関三友双鶴図」「暗香疎影図」「松巒古寺図」は名品中の名品とされそれぞれ重要文化財に指定されている。



俵屋宗達

生没年不明

加賀もしくは能登 生

絵師

国宝「風神雷神図」を描き、尾形光琳がその画風を引き継いだため琳派の祖といわれる画家。江戸時代初期に活躍したと憶われているがその生涯には未だ不明な点が多いが、市井の絵師としては異例の法橋の位が与えられており、当時からその画力は高く評価されていた。